会の発足と時局
岳洋先生の熱心な指導で三回五回と稽古を重ねる中、会員も増え熱気があふれる教場となって行きました。
しかし昭和六年に満州事変、そして十二年に日支事変と、時局は戦時色を強め遂に会員に召集令状が舞いこんできました。熱心に勉強していた会員に何とか報いたいと考えた岳洋先生は、応召される会員に餞として初伝の許証を贈りたいと岳風先生にお願いして、最初に召集された会員に「盡泉」「忠泉」「報泉」「国泉」の許証を贈り、武運長久を祈願激励されました。
「盡忠報国」といっても現在の若い方にはサッパリわからないでしょうが、大正一桁の私達にとってはこの四文字を聞くと瞬時に七十年前の世相が甦って参ります。
さて、大勢の友人が署名された日の丸を襷にかけ歓呼の声に送られ勇躍征途についた国泉さんはその後中国各地を転戦、悪戦苦闘を重ねましたが無事復員されました。そして公務に復帰、戦後の復興期、長い勤務を終え、定年退職、数年後碩心会が再建され、各地に教場が開設されていることを知るや直ちに再入会、若い会員と楽しく学び審査を重ねて奥伝位まで昇段、在籍中高令の為亡くなられました。現在ご子息さん(風早支部中村欣山)が入会され研鑚に励んでおられますが、七十年の歴史を飾るエピソードとして紹介させていただきます。
自然休会
松井岳洋先生は一人で碩心会の指導に当る傍ら、当時相模原の陸軍病院に岳風先生が指導に当っていた為県内在住ということでその助手をつとめ、代範や審査会に協力、多忙な吟道の日々でした。
昭和十六年大東亜戦争に突入、世情は刻々と変り逗子町は横須賀市に合併され、軍都となりました。そして昭和二十年に入り「鉄道沿線二十五米以内の建物は強制撤去」という軍命により終生の家として丹精込めて建てた先生の家は建築十年で、終戦二十日前に無惨にも撤去されたのでした。
一度岳風先生が訪れて「旅館の様な大きな家ですね」と言われたのが「せめてもの喜びでした」と述懐されておられました。
家族を先に疎開させ、岳洋先生も終戦前に山形に行かれ、碩心会は自然休会の状態になりました。
再建にむけて
終戦を山形で迎えた岳洋先生は数日後、家の様子を見てこようと、一人で上京され屋敷跡に行ってみました。早朝出発したのに、到着した時はすでに日が暮れておりました。
跡形もなく取りこわされた姿に茫然。月の光が庭石の片鱗をしらじらと照らし、草むらにチッチッと微かに鳴く虫の音に哀愁の思いをかきたてられ、妹の家も、知人の家も尋ねれば、遅くとも喜んで迎えてくれるのだが、孤愁の夜を誰にも逢いたくなく、独り好きな詩を吟じ明かしたいと思い、いつも行きつけの海辺の岩場に行かれました。
そして、「山中の月」「慈烏夜啼」「零丁洋を過ぐ」などを思い出すまゝ吟じ続け、早朝大野孤山先生宅に行かれました。
事情を聞いた大野孤山先生は、自分のことの様に涙を浮かべながら聞いておられ、「差支えなければゆっくりしていってくれまいか、今後のこと考えま七よう」と暖かく迎えてくれました。夕食には間があるから、今から海岸へ行って吟じ合おうではないかと誘われ、先の岩場で韻読の勉強をされました
そして陽のかたむく頃、砂場の方へ引揚げて来た時、尺八の音が聞え、青年との出合があってあの「舟艇守の尺八」の名詩が生まれたのでした。
大野孤山先生宅で一夜を過ごした岳洋先生は、その詩を持って長野の岳風先生宅へ行かれました。岳風先生からも傷心を慰められ、そして「これまでは戦争の為、人心昂揚にのみ片寄り過ぎた詩を吟じて来たがこれからはいつの世にも愛誦される吟道へと変えなければならない」と、熱意をこめて語られました。
その後吟道再建の気運も芽吹き、碩心会もようやく再建の運びとなりました。
再建時は横須賀米海軍基地に勤務されていた方々が中心となり相寄り岳洋先生を師範として碩心会を正式に再建することになりました。
当初は七~八名程度でしたが会。員も順次増加し、昭和三十年神奈川県本部発足時から加盟し、大きな役割を担う会となりました。