加藤岳相(かとう がくそう)
大正8年生まれ 昭和32年入会
上席師範 宗帥

碩心会の再建は横修廠から

朝鮮動乱の始まった昭和二十五年十月、私は米海軍横須賀基地艦船修理。廠、略して「横修廠」(S・R・F=Ship Repair Facility=)に就職しました。

この吟のあゆみを書くに当り、私達の先生及び先輩も他界した人が多く、お聞きする事も出来ず数少ない資料と記憶だけを頼りに記述したので、誤りもあることと思いますがご了承を頂きたいと思います。

昭和十一年の春、私か戦前勤務していた元横須賀海軍工廠造兵部(現在の横須賀市船越町)では会員募集の為定時退廠時、スピーカーにより吟声が流されておりましたが、その声は現在の草野岳穣先生だったことが後に判りました。(後日聞いた話ですが、造兵部に勤務していた人達が昭和十二年詩吟愛好者で結成した横須賀吟星会には、木村岳風先生が月に一度指導にお見えになられていたそうです。)

私も若い頃は歌が好きだったのでその吟声に立ち止って聞きほれていました。詩吟に興味が湧き早速船越仲通りの東京堂書店(現存)へ行って皇漢名詩の吟じ方の本を買いました。(この本は日本詩吟学院の最初の教本で、昭和九年十一月二十五日に桑文社より発行されたものでした。私の持っている本は昭和十三年十一月一日の四百三十五版です。木村岳風先生が長野の地、地蔵寺の裏にある滝に打たれながら符付を考えられたという教本です。)

戦後の復興期、世の中も徐々に生活に落ち着きが出て来た昭和二十六年の春、新田嶺風先生(故岳悠)、松本蔦風先生(現、吟道学院・蔦神)達がS・R・Fに就職して来たことをきっかけに、職場内の戦前の詩吟愛好者や他の会の人達が職場の友人などを誘って岳風会の再会を呼びかけ、終業後基地内の一室を借りて横修廠と会名をつけ、昭和二十七年より練習を始め昭和二十九年に発会いたしました。その頃、川崎方面でも数会が発会していた様です。

この発会に尽力した人達は羽生喜一氏(故人、横修廠初代会長、筑風)根岸富男氏(故岳萃・碩心会三代目会長)故安川正雄氏等がおられました。横須賀方面では最初の会でありました。

私は一時安川天山氏(鎌倉市在住・元海軍主計大佐)とは同じ職場で、昭和三十二年春頃、安川氏に勧誘されて横修廠に入会しましたが、その時に指導頂いたのが新田岳悠先生、松本蔦神先生でした。

また私より半年位早くS・R・Fに在職中の逗子の板倉得司氏(故、元海軍軍人)、続いて三十二年三月に基地のハーバーマスター勤務(艦船の入出港時の水先案内人)の高橋勝一氏(元海軍中佐・生死不明)等が入会いたしました。

三月には根岸新治氏(故人・清岳)九月には下条良氏が入会、会員数も十一名となりました。

三井謙二氏(二代目会長)入会

昭和三十四年二月、SRFハーバーマスター勤務の三井謙二氏(故人、元海軍中佐、二代目碩心会会長、岳瓏先生)が入会。

九月には井澤朝吉氏、村田保次郎氏(両人共故人)が入会、井澤氏は私の家の近所の人で、私が海岸に出て練習していたのを聞いて、奥さんが主人も仲間に入れてもらいたいとの依頼で入会した。十一月二十九日(日)川崎衛生福祉会館で行なわれた県本部第五回朗吟大会には、六名が出吟し、県本部加入二十団体、会員数九九八名、出吟番数を二部に分け、三〇二番、招待者二十七番であった。

この時は、会員三名増え十四名となった。

故石渡岳道先生の名吟に感激

秋の県本部第六回朗吟大会は、横須賀市大津小学校で行なわれ、三井、高橋、板倉三氏の連吟で、藤田東湖の長詩「述懐」を吟じた。最高音が二ヶ所あり練習に苦労したそうです。当時の大会は独吟が多く、連吟が少しあり、合吟はなかった。三氏以外の人は独吟で、井澤氏他と碩心会より七名、横修廠より加藤秀山、根岸晃風氏と二名出吟。参加会数二十四。会員数一〇八〇名、出吟番数三〇二番、招待吟二十九番でした。この大会に碩心会より初めて役員とし受付係板倉竜泉、横修廠より連絡係として加藤秀山が活躍した。

この頃、県副本部長であった石渡岳道先生が碩心会と横修廠との合同審査会においでになり模範吟として本宮三香作の「戦場の月」を吟じ、先生の名調子に一同感激、深く印象に残っています。

三十五年には入会者がなく会長以下十四名にとどまった。

初めて女性会員が入会

昭和三十六年二月、松井岳洋先生が、小林紫園(現紫舟先生)さんを連れて教場に見えた。菊地秀園先生の道場で詩舞、剣舞の修業中で、どうしても吟が必要と感じて松井先生の門をたたかれての入門であった。初めての女性会員である。十月一日の第七回県本部吟道大会には小林紫園さんの詩舞で「名槍日本号」を板倉竜山外四名で連吟し、県本部の大会に新風を巻き起こした。

この冬、消防署移転のため下条領泉氏の肝入りで、JR逗子駅、線路際の水道局仮事務所を一時教場として使用させて頂いたが、間もなくなぎさ通りにある「なぎさ会館」(逗子商工会の事務所、現在のOKスーパー店あたりにあった。)に移した。この会場はガラス戸越しで道路に面していたので会員勧誘の効果も少なからずあった。

第一回逗子市市民文芸大会

昭和三十七年より県本部の大会は、春と秋と二回行なわれる事になり、第八回の大会は、三月十八日、川崎市の読売ホールで行なわれ、碩心会より、高橋碩山外六名が独吟し、秋の十一月二十五日の第九回の県本部大会は横須賀市民会館(現在の芸術劇場あたりにあった)で行なわれ、碩心会より板倉竜山会長外七名が独吟で出吟、終了は八時三十分であった。

春秋の審査会を横修廠と合同で何回か行うようになり、審査員には、故松井岳洋先生、故常盤岳湘先生、故新田嶺岳先生(後、岳悠)、故石渡宏岳先生(後、岳道)で行なわれた。秋の審査会で私、加藤秀山は六段に昇段した。審査会が終ってからの後日、横修廠の先生である新田先生より「加藤さんこの次は奥伝だが、自分としては人を指導出来るような吟力にならなければ奥伝には申請しないよ。」と言われたことは今も忘れられない。六月二十三日、逗子小学校講堂で市民文芸大会と銘打って、現文化協会の前身、市民文化協会主催による第一回文芸大会が開かれた。各種芸能十八団体に交って吟詠剣舞、詩舞が碩心会によって、はじめて市民の前に披露された。

十月二十七日第十二回逗子市文化祭には朗吟発表会が単独で催され碩心会十五名、吟友十一名その他十名で詩舞四題を含め出吟題数四十で最後に松井先生の「祝賀の詞」を小林紫園先生が舞い盛会であった。

再建六周年大会

第十回神奈川県本部大会は三十八年五月二十六日、横浜市神奈川歯科医師会館で行なわれ、碩心会より高橋碩山、故根岸基山の連吟で小林紫園さんの舞「桜花の詞」、また故根岸晃風後、岳萃)と故三井玲山(後、岳瓏)の連吟、「書懐前編」を吟じた。この書懐前編は韻読で吟じ、大会での韻読は始めてであったろうと思われる。この大会では九回大会より三会多く参加、三十四会であった。

再建と銘打って再興してより六周年、加藤圭一氏(現会長)等の人会により会員数も二十二名となり、七月七日(日)逗子小学校講堂で、再建六周年記念吟道大会を行い、松井岳洋先生外会員吟詠十六、詩舞九、賛助吟詠十八名、会長吟詠十一名、招待吟詠六名で盛会裡に終り会員一同感激の極であった。

八月には小坪吟友会とともに吟道連盟協議会を発足させ、市の認可を得て、逗子吟道連盟の形が出来、若干の援助を受けられるようになった。

第十一回県本部大会は十一月十日(日)川崎衛生福祉会館(よみうりホール)で行なわれ、田中新泉、内田孝司、加藤圭一氏独吟、三井、高橋氏の連吟で詩舞「富士山」を出し、小林紫園さんと根岸幸枝さん(高校生)が舞った。

秋の審査会が、なぎさ会館で行なわれ、私の奥伝審査には口答試問があり、常盤岳湘先生より「総本部は何処にあるか」との問いに正確に答えられなかったのが残念であった。この年前年入会されていた小峰彦次郎氏達の呼びかけで四月、葉山町堀内教場が発足した。会員は故根岸基山外七、八名であった。それが数年後には碩心会第一号の支部になろうとは夢にも思わなかった。会場は最初葉山消防団第五分団の詰所(元町)の二階で稽古をはじめた。松井先生も時々指導に来て下さったが湯茶も無く失礼であったが飲物は各自持参で あった。この頃から次に発足する一色方面から二、三名の人が参加していたがやがて、新築の堀内会館に移った。