逗子市民体育館の落成

昭和三十九年五月十日(日)の第十二回県大会は横須賀市民会館で行なわれ、碩心会より小池正枝、加藤圭一、小峰順泉、下条碩山の四名が独吟で出吟。六月二十一日逗子信用ホールで、逗子吟道連盟の発表会を開く。碩心二十名吟友十七名に詩舞三題を含め一応形の出来た吟道大会になった。招待者は岳風流横須賀方面の諸先生十四名であった。

十月十一日の県本部第十三回、並びに創立十周年大会は横浜西公会堂で行なわれ、鈴木告夫、中村幸太郎氏(現、岳郵)の独吟と詩舞「大楠公」を小林紫舟先生の舞で、根岸基山、高橋碩山が連吟した。参加団体三十五、会員数、一四三二名。十一月一日逗子市民体育館落成記念と文化祭が併行して行なわれ、碩心より詩舞二題、吟友より書道吟が発表された。

逗子市体育館で十五回県大会

昭和四十年の年明けて、入会者は急増して来た。二月以降、千葉信一氏、千葉信子さん、中村あいさん他多数入会会員数は三十二~三名に定着して来た。六月二十一囗(日)県本部第十四回大会は川崎労働会館で行なわれ、竹村梅泉、加藤圭泉、三井徹風が出吟、秋の第十五回大会は十月十日(日)逗子体育館で行なわれ、はじめて県大会を逗子の地で開催することと なった。地元碩心会と、吟友会で準備、後始末をやったが、その労力は並大抵ではなかった。体育館が土足厳禁の為、床に重いキャンパスを敷きつめ、椅子四〇〇人分を並べた。出吟は三井徹風外十五名の大合吟、「大楠公」と、独吟の中村幸泉、詩舞は「月の幻想」の長物を小林紫舟先生と千葉信子さん、藤田紀恵子さん三名で舞い根岸基山、加藤圭泉、鈴木草泉の吟、中村あいさんの唱歌で相当の反響があった。特に誠吟会の六十名の大合吟は今でも目に残る。参加団体数三十五、会員数一四八九名であった。私は進行の役員であったが、前日徹夜勤務であった 為、一睡もせず舞台の袖で居眠りがでてしまい、同じ進行係の故岩崎蔦風先生に起こされた失態は今も忘れられない。秋の逗子文化祭には各芸能部と共に碩心会より詩舞二題を出した「桜花の詞」吟加藤圭泉、舞小池正枝さんと「ひえつきの歌」吟鈴木草泉、中村あいさん、舞小林紫舟先生と千葉信子さんであった。この時興国流の金港吟詠会がはじめて出吟し、逗子市吟詠連盟の結成の気運が高まった。

再建時の会長で八年間務められた板倉竜風氏が四月で退任、三井徹風氏が新会長に就任した。板倉氏は軍人であったとは思えないような温厚なお人柄故、再建時の会長として、苦労された。

第一回逗子吟詠連盟発表会

「日本を愛す」の舞横山岳精先生に褒められる

昭和四十一年四月には、加藤秀風の指導で発展の基礎作りが出来上り、大船駅より北鎌倉駅寄り徒歩七、八分の処にある国鉄の倉庫の二階を借り、大船教場として発足した。

五月八日新築の小坪消防団詰所二階で、第六回逗子吟道連盟の大会を行った。碩心三十名、吟友十九名に横須賀の横南支部七名の応援と草野岳穣先生、新田岳悠先生を招いて盛会であった。

五月二十二囗(日)の第十六回県本部吟道大会は、横浜市西区公会堂で行なわれ、碩心会より小峰順山、故竹石憲泉、千葉信泉(現岳関)、猪田和泉が独吟で出吟した。

昭和四十一年十月九日(囗)県本部吟道大会は、川崎市読売ホールで行なわれ、碩心会より独吟三題、六名の女性群の合吟の外、詩舞、「日本を愛す」を舞、石垣よし子、千葉香泉、小林紫舟、吟、千葉信泉、故根岸清風、加藤秀風(故岳相)、三名の連吟、尺八、三井徹風(後、岳瓏)で出吟し、満員の会場から万雷の拍手を受けた。そして緞帳が降りた時、当日袴姿で来場していた相談役の横山岳精先生が、御自身がレコードに吹き込まれて発売したものだっただけに嬉しかったのであろう、舞台に上って来られて出吟者全員に言葉をかけて握手してほめてくれたのが印象に残っております。

十一月三日の逗子市第十六回文化祭に図書館ホールで、各種芸能団体と合同発表会を開催。碩心会は独吟、三井徹風で出吟した。

十二月には、根岸清風先生、石木さん、鈴木しんさんのお世話で一色支部が発足、守谷うめさん、鈴木富美子さん、守谷しげさん、総勢十二名が入会、根岸清風先生が指導に当った。

この年の県本部の加入団体三十六会会員数一、六四九名、碩心会の会員数も七十名になった。

再建十周年大会