昭和四十二年五月二十一日第十八回県大会が逗子市図書館ホール開催され、碩心会より大船の女性八名が出吟。十月一日第十九回県大会は横浜市西区公会堂で行なわれ、初めて合吟コンクールが取入れられた。加入団体数三十七、会員数一六九二名であった。十一月五日はじめて葉山で第一回の文化祭が行われ、二十数名参加、以後定例の年中行事となった。九月一日逗子吟道連盟は、逗子市吟詠連盟として発足した。参加団体は碩心会、金港会、光会、逗子吟詠会、紫舟会と六団体約二百名となった。その第一回行事として十一月十二日第十七回逗子市文化祭が行われ、碩心十九、吟友七、金港十、逗吟三、光三、紫舟十二名の出場を見た。又九月下旬に会員八名で沼間支部が発足した。

十一月十九日には逗子市逗子信用ビル三階ホールにて碩心会再建十周年吟道大会を開催した。一〇二題を盛会裡に終了した。

この大会を契機に吟力も向上し、盛り上りも充分であった。又常盤岳湘先生が小林紫舟先生を特別に紹介した事も印象に残る。

昭和四十三年三月十七日(囗)逗子吟詠連盟として、第一回の発表会を逗子市図書館ホールで開催、各流の師範宗家を御招待して模範吟詠をお願いした。岳風会県本部長・松井岳洋先生、金港吟詠会長・瀬野興総先生、登喜和流宗家・室伏秀行先生、興国流宗家・篠崎興国先生の吟詠に有終の美を飾り盛会であった。

五月には根岸清風先生のお世話で、長柄支部が発足した。

五月二十六日(日)川崎市読売ホールの第二十回県本部吟道大会には平本さん他六名が出吟。

この年の十一月には会員数は一〇五名。県本部参加団体三十八会会員数は一八五〇名となる。

秋の第十八回逗子市文化祭には、新しく入会した青嵐会逗子支部の参加を見て、出吟者数、碩心三十三名、吟友十一名、金港十六名青嵐会七名、逗吟九名、光七名、紫舟八名であった。

昭和四十四年三月三十日、第二回逗子市吟詠連盟の大会を行う。諸派諸団体一体となり数に於て二百数十名が文化都市逗子の文化向上に一役を買うこととなった。ここで松井岳洋先生、常盤岳湘先生を連盟顧問に推戴し前進することとなった。

六月八日、日本詩吟学院神奈川県本部の創立十五周年大会を鎌倉中央公民館で開催。此の大会の式典の許証授与では二十名の人が皆伝の許証を頂いた。当時の皆伝は各会の会長が推薦した人を県本部で合議の上、決定された。当時の二十名は現在橘川岳諍先生、増田岳厚先生、と私、と三人になってしまった。吟友に祝福された時は、感激で一はいであった。

県本部はこの年、四十四団体、二〇一二名と発展し碩心会も登録数を百三十名とし、全員一体の精進で益々その発展が予測される機運となった。

十月葉山富士見支部が発足、沖縄から来ている青年を含めて、根岸清風先生か指導、続いて加藤秀岳、故沼田洸風と引継いで少人数であったが家庭的な雰囲気で行なわれた。

昭和四十五年三月二十九日には横浜市西区公会堂で第二十三回県本部吟道大会が開かれ独吟・合吟五題と詩舞、日本を愛す、を碩心会から出した。

六月七日には岳風会総本部の第五十八回全国吟道大会が東京の国立教育会館で開催され、内容も多彩に亘り、十五名一組の合吟コンクール三十四組の中に碩心会堀内支部より男女混成の一組も出場、見事入賞の栄冠をがち得た。

又男女混成で入賞は碩心会だけであった。九月には下山口教場が八名で発足した。

五十八回全国大会で堀内支部合吟入賞

十一月十五日、逗子市文化祭には出題一〇〇の内、碩心会から吟五十題と詩舞九題をもって出場。この会以後文化協会に登録員数を百名に限定し、他会の出吟数を増し出吟者も逗子を主体とした配員とすることにした。

十月三日、四日の岳風先生の墓参、諏訪吟行会、バスー台を借り切り総勢五十一名参加、午前七時一色を出発、大船で全員合同西湘コースを西へ、県本部詩の合吟から始まり、吟声と共に河口湖にて大休止、甲府昇仙狭を経て下諏訪の旅館に四時に入る、借切り旅館で夜の更けるまで吟声を聞く。翌朝九時出発、地蔵寺墓前にて大合吟、本堂にて読経、岳風先生ゆかりの書院、庭園に心ゆくまで遊び、記念館を拝観後、白樺湖、葡萄狩り、雨の相模湖を経て、八時過ぎ大船着散会した。

四十五年は県本部の登録団体五十五会、会員数も二四六〇と飛躍的な発展を遂げ、碩心会も又会員数は二〇〇名。県下第四位の大きな会となった。

六月の県本部総会に於て、役員改選があり、多難であった県本部創設以来本部長として尽力なされられた松井岳洋先生が、昨年の県本部十五周年大会を契機として本部長を勇退、後任として常盤岳湘先生か本部長に就任した。又会員増加による県大会等に出場出来ない人が多くなる為、地区制度が設けられ、各地区が大会を開き、多くの人が出吟出来るようにする為、横須賀、川崎、横浜、湘南と四つの地区が出来、碩心会は横須賀地区に所属、地区長には石渡岳道先生が任命された。