中村岳郵(なかむらがくゆう)
大正8年生まれ 昭和38年入会  上席師範 宗匠

松井岳洋先生とのお近づき

 記念誌編集にあたり、先づ創立当時の状況を土台に、順次歩みを綴りたいとの考えは創立七十周年記念誌編集委員の一致した意見でした。しかし、七十年の歳月を経た今日、創立に参加された会員は残念ながら一人もおりません。そこで創立者松井岳洋先生より直接伺った当時の状況を記し、歩みの第一歩とすることにいたします。
 私事で恐縮ですが、私は岳洋先生には格別のご高配を賜りました。入会十年目頃から許証揮毫のお手伝いをすることになり十八年間毎月数回先生のお宅に伺いました。玄関で用事をすませる事が多かったのですが時に「今日は時間がとれたので上ってゆっくりして下さい」と、応接間に通され一時間以上二人でお話いたしました。又拙宅とは三キロ程離れておりますが、足の運動に丁度よいと、自転車で度々おいで頂きました。路地を入った山の麓の静かな場所で、家内(岳愛)も会員で、共にご指導をうけておりましたので、「ここに来ると落着く」と言われ長時間お話いたしました。
 その折の話題は祖宗範木村岳風先生、大野孤山先生との出合いと、その後の長い交流、吟の道を求めての研鑚等々・・・一人で聞くのは勿体ないお話でした。そんな時、碩心会創立当時のことも若干伺いましたが、その後の会の詳細についてはついぞ聞き忘れ、今回の記念誌編纂に当って大変残念で申訳なく思っておりますが、碩心会に係る項目について記述させて頂きます。

岳洋先生吟の道を求めて

 昭和の始め岳洋先生は十八才の頃より書家三室金羊先生に師事して書道一筋に打込んでおりました。金羊先生は月刊の書道誌を発行しておりましたので、毎日届く競書の整理や編集も手伝う様になり多忙な日常を過ごしておりました。
 そうした折、慈愛深かったお母さんが五十三才で他界されました。非常に悲しい思いにかられこの様な時自分の思いのたけを十分の一、百分の一でも表すことが出来ないもどかしさで一杯でした。そして自分の気持を声を出して訴えるものがほしい。又それによって発奮、慰められたらと、日頃から好きマあった詩吟に求める気持を強くもたれました。
 その頃ラジオで聞く一流吟詠家のレコードを数多く集め、いつか一流の先生について正式に詩吟を勉強したいという思いをもち機会を望んでおりました。

岳風先生との出会い

 松井岳洋先生の奥様は東北、山形の出身で新婚当時は度々そちらに旅することがありました。
 ある日、ある駅で停車した時、当時は停車時間が長かったので、乗客は皆ホームに出て新鮮な空気を吸っておりました。
 その時外れの方から吟声が聞こえて来ました。引かれる様に近づき吟の終るのを待ってその方に話しかけたところ、思いがけずその方は岳風先生の門下生でした。名 刺に紹介状を書いて頂き、非常な喜びで用事を早々にすませ、帰路上野駅に到着するやその足で九段の岳風先生のお宅に直行、始めてお目にかかりました。

入門許可

 逗子から通うということで驚かれたそうですが「遠くから通うのは大変だが、あなたに熱意があるんだったら私もお受けしましょう」と励まして下され入門を許されました。
 それからの稽古の日は、雨の日、寒さのきびしい日も休むことなく、九段の道場に独り通われました。
 現在逗子東京間は一時間、本数も多く便利になっておりますが当時は大変だったそうです。
 それだけに自分の稽古が終ると片隅にさがり、他人の稽古を熱心に傾聴、そうした打込んだ精進で吟技の進歩は人一倍早く、岳風先生も将来を嘱望されておりました。

碩心会の創立

 ある日稽古を終えた時「松井さん、今日勉強したことを人に教えてあげなさい。それが進歩の早道ですよ」と言われ、そこで逗子の青年会や逗子町役場(当時)の若い職員に呼びかけ、創立されたのが碩心会の誕生です。

会名の由来

 碩心会の名付親は松井岳洋先生です。
 会名を定めるに当っては、吟道を博(ヒロ)く、また深く求め、日々聖賢の教えに触れ、これを自己の修養の糧として各自が立派な人格者とならんことを目途に大野孤山先生にお話したところ、「松井さんらしい発想で我が意を得た好い会名ですよ」と高く評価され成長を祈って下さったそうです。
 そこで早速木村岳風先生に報告したところ大変喜ばれ、「発展を期待してますよ」と励まして下さったそうです。
 二百二十余りの全国認可団体の中で七十年の歴史を誇る名門碩心会を改めて認識し、誇りをもち一層精進に励みたいものです。